「特定秘密保護法反対」

「特定秘密保護法」、「集団的自衛権」に反対します。憲法第9条をしっかり守りましょう。教育勅語の教材活用は間違いだ!

自由であっても、他人の生まれ、身体、性別、年齢、故郷、風習、宗教、民族、国を差別する、小馬鹿にする、冒涜するのは許されない。

原発不要・核廃絶


2009年1月7日水曜日

早くも春!

帰省する前の12月23日のブログで紹介した近くの円行公園の紅梅を見に行った。何と、もう満開であった。釧路は氷の世界だが、藤沢は早くも春が始まっている。
我が家の庭に水仙も花盛りだ。
庭の白梅の芽も膨らんできている。
と、書いてきて、、、、。
え?どうして? と疑問が生まれた。
公園には紅梅と白梅があるが、白梅の花芽はまだ開くのに2週間はかかりそう。
何故、紅梅の方が白梅よりも開花が早いの?
家人はチューリップなども花の色によって開花時季が少し異なると言う。

2009年1月5日月曜日

啄木の碑

これは港が見える米町公園にある啄木の短歌が刻みこまれている碑である。
「しらじらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな」
釧路は魚の港町であり、荒っぽい気性のところである。
西国出身の私の友人は、釧路を含む道東地方は民度が低いところだと称した。
確かに、西国の女性と比べると釧路の女性はガサツである。
にも関わらず、釧路では啄木のようなひ弱とも思えるような文学者好きである。
わずか数年しか釧路に滞在していなかったのに、啄木などを称える「港文館」まである。

ぼくも、子供の頃から啄木に親しんできた。

2009年1月4日日曜日

老母の脳梗塞

あと数日で92歳になるお袋が脳梗塞で倒れたのが一昨年の暮であった。

入院していた頃の症状:
視野狭窄が生じているようで、ぼくの顔が半分しか見えない。
字は全く理解することができない。平仮名でさえも読むことができない。
しかし、字を書くことができる。難しい漢字さえも書くことができる。
顔つきは呆けた感じ。

1ヶ月後の1月下旬には退院して10月までの症状:
テレビを見ることができない。読み・書きに関しては入院時の状態。
自分の記録を書き始めたが、書いたものを読み返すことができないので、途中で挫折。
妹を含め近親者に対して、烈火のごとく怒る。
同じ事を1日に何度も聞く。
息子・娘の言に従わない。
顔つきは般若の如し。

11月から2009年1月の現在までの症状:
テレビを見、新聞を読む。
年賀状を書く。
昨日から自分でテレビをつけられるようになった。
昨年の病状について尋ねたが、覚えていないようだ。
顔つきが脳梗塞前の顔に戻っている。

朝・昼・夜と三回薬を飲んでいるが、その量が半分になっている。
脳梗塞で、詰まっていた毛細血管の流れが良くなっているのかもしれない。
自分では、あと5年くらいは生きそうだと云う。
今回は実家に戻り、始めてお袋に感謝される。

脳梗塞後、退院して家に戻ってから、風呂のスイッチ(ぼくは複雑すぎて出来ない)、トイレの操作、戸締り、ガスストーブの火の点火・消火、ガスレンジの点火、電子レンジで食物を温めるは、問題なくできるが、テレビのリモコンの操作、電動按摩椅子の操作は出来なかった。

これが、ぼくがいる間に、テレビや電動按摩椅子の操作ができるようになった。
テレビや按摩椅子は脳梗塞になる前の2年前に買ったものであるが、他はもう15年近く馴染んだものである。
トイレも家のものは操作できるが、病院ではどうしたら良いのか一人では使いこなせない。

老人にとっては馴れた物や事が一番である。ぼくでも電車の切符を買うのに切符販売機に手こずることが多い。高齢者医療制度の変化を含めて、めまぐるしく変わる世の中は老人にとってはさぞかし住み辛いことは疑いがない。

政府は、50年、100年を見据えた変わらない政策を打ち出して欲しいものだ。また、めまぐるしく出てくる新製品、売らんかなの小刻みの新製品は止めてもらたい、10年、20年でも部品交換ができる良い製品を作って欲しい。それが、環境をも考えることに繋がるだろうし、高齢者にとっても安心して暮らせることになる。

和商市場

釧路駅前の和商市場:
1945年の戦後に駅前に集まった露天で市場が始まった。
ぼくが子供の頃も和商で昆布などの乾物や魚介類を買いにいった思い出がある。
当時の市場は、上野のアメ横と同じで、地面は野菜屑などが落ちており、活気とともに異様な匂いがした。
今日、昼ちょっと前に行ってみたが、開いているのは乾物屋さんなどの土産物店だけであり、鮮魚や野菜・果物などを売る店はまだ閉じていた。
そのためだろうか? お客もほとんどいなく閑散としたものだ。
明日帰るので、今夜食べる美味しい魚介でもと思ってきたが、肩透かしだった。

2009年1月3日土曜日

阿寒国際つるセンターまでの「まりも国道」

車の中から「阿寒国際つるセンター」までの道沿いの景色:
国道240号線は、釧路から網走までの一般国道だ。釧路から阿寒湖までを「まりも国道」と呼んで親しんでいる。

大楽毛から、「まりも国道」に入った車窓からみた景色
時々、シカ飛び出し注意の看板がある。
今回は、行きも帰りも周囲の牧場にシカが出ていないか注意していたが、一頭も確認できず。
もうすぐ、阿寒町である。
快晴なら、雌阿寒岳や雄雄阿寒岳が前方に見える筈なのだが、ダメ。
5月くらいになると道路沿いでは、コゴミ、アイヌネギ、ウド、ワラビなどの山菜を1時間もあれば、いっぱい採れる。
阿寒町に入る。
ここから、ツルセンターまでもう少し。
つるセンターで、カメラパーソンたちの横の垣根越しの藪にスズメがたくさんいた。
みな、寒くて「ふくら雀」になっていた。

ふくら雀になっているせいか、神奈川県でみるスズメよりも一回り大きい感じがしたので、何度もお前たちスズメだよね!と確かめてしまった。

2009年1月2日金曜日

ツルセンターでの給餌

タンチョウヅル雪原に広がってなんとなく手持ちぶたさ。
タチョウたち同じ方向に目を向ける。
タンチョウもカラスもカメラパーソンたちも騒がしくなる。
バケツを持っておじさんがでてくる。
餌(何か不明、ドジョウ?トウモロコシ?)を撒きはじめる。
オジロワシたちが十数羽旋回し始める。
何羽ものオジロワシが餌を取ろうと急降下し始める。
この時、餌がトウモロコシではないことを知る。
カメラパーソンたちのお喋りは完全に止み、シャッターを押すと同時に3コマ撮れるように設定している音が響き渡る。
ぼくのカメラで瞬間的映像はとても撮れないので、カメラパーソンたちを写すことになる。
ぼくにとっては非常に異様な光景であった。
まず、タンチョウヅルはもう十分な個体数になっているだろう。
もう、絶滅の危機をまぬがれている筈なので、餌付けを続ける必要性があるのだろうか?
ぼくが高校生くらいの頃、タンチョウヅルの写真を撮る釧路在住の医者の林田恒夫さんがいた。
彼は、年中一人で、タンチョウを追って、写真を撮っていたと記憶している。
皆、裕福になって多くの人が高額なカメラを買い揃えることができるようになった。
その一方、生き物を見つめる姿勢の大事なものが失われてしまった印象をもっている。
素晴らしい写真とは高額な機材から生まれるとはかぎらない。

2009年1月1日木曜日

阿寒タンチョウ観察センター分館

昼食後、温かくなってきたのでお袋を連れて阿寒国際ツルセンターに妹の運転で行ってきた。
「生まれて始めて野外でこんなに多くのタンチョウヅルを見た!」お袋が感激して云う。
タンチョウヅル、カラス、オオワシ、オジロワシ、スズメ、キタキツネをみた。
温暖化の影響か?
元旦なのに道路の雪が解け、しかも阿寒は釧路に比べるとはるかに雪が多いところなのにせいぜい30センチくらいなものか、、、。
元旦なので国道はトラックなどの営業車は走っておらず、車はちらほらしか見えない。
が、阿寒国際ツルセンターの駐車場は空いているところを探さなければならないほどだ。
別館のタンチョウ観察センターに行って大人一人400円を払って外にでると、200羽以上いるタンチョウヅルを写真に撮ろうとする中高年のカメラパーセンの人たちが6、70人はいる。
多くは、一メートルはあろうかと思えるような長い筒上のレンズをつけて、お喋りをしながら何かを待っている。
おそらく大半のカメラパーソンはアマチュアなのだろう。男性ばかりでなく女性もいる。顔馴染みがいるようだ、声を掛け合い、鶴居だ、羅臼だと話しをしている。情報を交換し合っているようだ。
オジロワシが十羽くらいでやってきた、ジー、ジー、ジーと皆レンズを向けてシャッターを押す。
ぼくは、思わず、カメラパーソンたちを撮ってしまった。

新年おめでとう御座います。

2009年元旦6時50分の朝焼け

皆様、今年も宜しくおねがいします。

ここは運河公園と言って、釧路川と新釧路川を結ぶ運河であった。
ぼくが子供のころはすでに無用となっており、埋め戻されて緑地帯となっている。
新しい年が始まって、外に出た。
寒さもあって身が引き締まる。
車で朝日が海から昇るところまで行こうと思ったのだが、道がアイスバーン状態なので諦めた。
一台の車も走ってない。
で、近くの運河公園まで行って朝日!と思ったが、灰色の雲が空を覆っている。
今年は、さまざまな雲をとり除いて歩かなければいけない。
まず、歩く道をしっかり決めなくては!
不惑の歳はとうに過ぎたのに、ぼくはいつまでも想い悩む。

2008年12月31日水曜日

釧路港

米町公園から港湾を望む
ぼくが子供の頃は釧路川河口の港だけだったが、今は、対岸の新釧路川河口に西港ができている。
原田康子の「挽歌」を御存知だろうか?
彼女が若い時の繁華街の南大通りがしたに見える。
この米町公園は釧路の旧市街ともいうべきところにあり、啄木の碑がある。
北大通り方面を眺める。
今日は午後から、お袋が子供の頃や歩いたと思われる場所を車で回る。
日陰は滑るのでとろとろ運転、日向は融けてアスファルトが見えている。
米町公園から港の写真を撮っていると、30歳前後の女性が近寄ってくる。
なんと、寒いのに缶ビールを飲み、タバコを吸っている。
「写真を撮ってくれませんか」という。
驚いて「え!」と声を出してしまった。
何のことはない、彼女は携帯を出してここを押して欲しいと上の柵に寄りかかってポーズをとる。
一枚、ジーットいう音とともに撮る。彼女に出来栄えを見てもらい。もう一枚。
この場所にくると何となくロマンチックになるから不思議だ。

2008年12月30日火曜日

雪が降る

釧路は雪が少なく、氷の街である。

が、今年の暮はしばしば4,5センチの雪が降る。

人々は道が凍らないことを祈る。

こんな雪降りの日でも、庭に残っているヒメリンゴの実をヒヨドリが食べに来た。

左の木がヒメリンゴである。