「特定秘密保護法反対」
自由であっても、他人の生まれ、身体、性別、年齢、故郷、風習、宗教、民族、国を差別する、小馬鹿にする、冒涜するのは許されない。
原発不要・核廃絶
2022年9月30日金曜日
唐沢峠から膝が痛くなりそうだった From Karasawa Pass, my knees were going to start hurting
2022年9月29日木曜日
パッションフルーツのその後 Then passion fruit flower
2022年9月28日水曜日
2種類のシジミチョウ Two kinds of Lyeaenidae ’spring azure'
2022年9月23日金曜日
この昆虫は? What is this insect?
2022年9月21日水曜日
ジョウロウグモを見て思う! I saw Joro spider and think!
台風14号が行ってしまったが、台風一過の抜けるような青空ではなくはっきりしない薄ぼんやりとした日である。庭にラン鉢を戻した。ジョロウグモのメスが早くも網を広げて小さなハエを糸で丸めて体液を吸っている。このジョロウグモまだ少し小さく腹部も細い。これから大きくなって目立たない小さなオスもこの巣にやってくるだろう。
いつも台風の時に思うことがある。氾濫する川の中にいる魚はどうやって流されないでいるのだろうか?同じように飛び回るチョウやクモは強風をどのように避けているのだろうか?強風に耐えられない農作物は被害が甚大だ。テレビで落下したリンゴや水浸しの倒れた稲を見ると農業の大変さが解かる。ぼくは、ラン鉢は台風の時は室内に取り込むが、観葉植物類を室内においていると、どうしてもカイガラムシにやられて植物が弱る。しかし、夏場だけでも屋外に出しっ放しにしていると、風と日光と雨によって丈夫な株に育つ。アリ、アブラムシ、ダンゴムシやナメクジ、オンブバッタなど虫は付くが屋外の方が植物は丈夫になる。
恐らく、ぼくらも屋内ばかりにいるのではなくて屋外に出て風や日光、雨に当たった方が丈夫になるのだろう。今日は散歩に行こう。
2022年9月20日火曜日
パッションフルーツだ! It’s Passionfruit!
19日の朝、台風14号の接近ニュースで、庭の木にぶら下げていたラン鉢を部屋に取り込んだ。取り込んでいる最中に猛烈に雨が降ってきた。ぼくは山用の雨具を上に着、長靴を履き、帽子を被っていたが、ズボンや頭はびしょ濡れとなった。今、庭を見ているが、時折雨が降り、風が吹いている。蒸し暑いので窓を開けたいが今は無理だ!
2022年9月18日日曜日
登山道から宮ヶ瀬へ To Miyagase from moutain trail
2022年9月17日土曜日
金沢林道から653ピークを目指す The 653 peak from the Kanazawa forest road
2022年9月15日木曜日
老年的超越 Gerotranscendence
老年的超越、この言葉を高校同期のTGからのメールで知った。85歳過ぎた高齢期の老人の考え方のようだ。それを、東京都健康長寿医療センター研究所研究員の増井幸恵の日老医誌(2016;53:210-214)の論文から引用する。
老年的超越とは、高齢期に高まるとされる、「物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的、超越的、非合理的な世界観への変化」を指す。この概念の提唱者であるスウェーデンの社会学者Tornstamは離脱理論、精神分析論、禅の知見など取り入れこの理論を構築した。
と何だか難しそうだが、毎日新聞ネット版(2022・8・27)で増井は、北欧や日本の研究から、単身で寝たきりでも幸福感で満ち溢れている超高齢者が大勢いると述べている。寝たきりでも独りぼっちでも幸せだと感じているようなのだ。つまり、家族と離れ身体機能が衰えても幸せに感じている。
1997年に赤瀬川原平が「老人力」という概念を打ち出した。これにはボケるのも物忘れも老人力だ!とこれは痴呆症の一歩手前の多くの老人たちの症状を現わして笑い飛ばしている。
しかし、老年的超越はさらに年齢を重ねた85歳以上の高齢期の老人たちの考え方である。身体は不自由で孤独でいても幸せだというものだ。
ぼくはサルを追っていて、群れからオスばかりでなくメスも離れていく現象を観察した。サルでは通常はメスは生まれた群れから出ていかない。しかし、歳をとったメスのサルは、群れから離れて群れの遊動域内の100m四方にも満たない狭い場所で採食し、群れがその場に来ると群れのメンバーである娘たちとグルーミングをし群れが離れるとその場に留まったり群れと一緒に遊動する。オスに関しては拙著「箱根山のサル」晶文社の二章のオスザルの生活でアリ地獄タイプとして述べている。
今日は、山に行くつもりであったが、5時頃目覚めてから、収集した骨の事やExcelに記録したテンやタヌキの糞の事が頭に浮かび、あーでもないこーでもないと考えている内に5時半を過ぎてしまい。6時に階下に降りた。出かける前の娘から「これから山に行くの?」と聞かれ「もう車が渋滞に巻き込まれるので止める」と云い訳をし、コーヒーを飲んだ。
2022年9月14日水曜日
散歩をして筋肉を鍛える Take a walk to strengthen the muscles
2022年9月12日月曜日
子供の1年と老人の1年の違い The difference of between a year of child's life and a year of old man's life
子供の時の1年、お正月から翌年のお正月まではすごく長く感じた。〽もういくつ寝るとお正月〽と正月を待つ歌があるくらいお正月までが長く感じる。あるいは夏休みも、秋の新学期が始まるまでは非常に長く感じた。夏休みは屋外で朝から夕方まで遊びに遊んだ!
しかし、大人になると1年は短く感じるようになり、ぼくのような後期高齢者になるともう節分?もう雛祭りの桃の節句、子供の日の端午の節句があっという間に過ぎてしまい。暑かった夏ももう9月の半ばだ。
1週間も月曜だったのが、すぐ日曜日になる。歳をとると日にちや曜日が不明になるのはあまりにも早く日が過ぎていくと感じるので、覚えていられないからだ。1日だって、すぐ過ぎる。ぼくは時間が勿体ないので、朝は4時半頃起きるのだが、すぐお昼の時間になり、もう夕食が終わると寝る時間だ。
歳をとってからの時間感覚と子供の時間感覚はどうしてこうも違うのだろう。子供頃、風邪をひいて布団に寝かされていたことがあった。飽きる程寝てもまだお昼にもなっていないなんてことがよくあったものだ。
この時間間隔の子供と年寄りとの違いは、それぞれの人生の長さの違いに依るのだ!
それは、同じ1年でも10歳の子供の1年は今までの人生の10分の1だ。しかし、70歳の年寄りでは、70分の1だ。ぼくは76歳だから1年は76分の1だ。10歳の子供に当てはめれば7、8年過ごした感覚が後期高齢者の時間感覚だ。つまり、10歳の子供の1日は76歳のぼくでは1週間の時間感覚なのだ。
え?もうお昼だ!ソバにしよう!