人は各人がそれぞれ自分の心の風景をもつのだろう。
本を一つ取り上げても、読んだ時期がほとんど同じなのに受け取り方がずいぶん違う。
子供の頃、食べた物においても人それぞれの受け取り方が違っている。
ぼくはご飯が嫌いで、ジャガイモ、カボチャ、サツマイモ、トウモロコシの食事が好きであった。しかし、これが嫌だった言う人がいて驚いたことがある。
子供の頃、遊びまわった屋外の風景も同じように各人に違って受け止められているのだ。
下は前の家に植わっているナツメのの樹とその実
生まれてから高卒まで暮らした北海道釧路出身者にとって、ナツメという言葉は何故か憧れの懐かしさ、小学校唱歌の内地の風景を思い起こす。
小中学校で習ったすべての教科書に出てくる挿絵の風景は、遠い海を隔てた異国の風景であり、国語や音楽や理科、社会に出てくる桜や柿や水田、稲穂、気候や、鎮守の祭りのお話は北海道では味わえないものであった。
ぼくは教科書の中の街や田園の風景に憧れた、梅雨や台風にさえ憧れた。
生まれ故郷の心象風景は、灰色の空に覆われた寒々とした荒涼とした原野(釧路湿原)に埋もれる家屋である。
かっての日本人が欧米が憧れ、日本を卑下し欧米のすべてを美しく思い描く。
このようなことが宗主国である日本が日本語を含めてアジア各国に押し付けた時代があったのだ。今も帝国主義的に商品や文化という名である特定の価値観を押し付けている。
生まれ故郷が暗い寒々としたイメージを持つような子供を作り上げる教科書を含む文化は間違っているだろう。
そういう意味で、政府が変わったことによって美しい故郷が、水没から免れると考えられないものだろうか?
地方に目を向かせなく、東京へ、都会へという流れを作ってきたこれまでの政府の教えを払拭させる良い機会でもある。