「特定秘密保護法反対」

「特定秘密保護法」、「集団的自衛権」に反対します。憲法第9条をしっかり守りましょう。教育勅語の教材活用は間違いだ!

自由であっても、他人の生まれ、身体、性別、年齢、故郷、風習、宗教、民族、国を差別する、小馬鹿にする、冒涜するのは許されない。

原発不要・核廃絶


2008年10月14日火曜日

ペットの死

釧路の妹から、今朝早く、犬のマリーの死を知らせるメールが入った。
今夏、釧路に戻ったときにもう一匹とともに散歩をしたのだが、歩くのが大変だった。
2階への階段も登り降りができなかった。

この一ヵ月前からオムツをつけなければいけない状態になっていた。
目の回りの毛は真っ白になり、イヌでも老化すると毛が白くなることを知った。
下の写真は2005年の正月の時のものである。
この時からすでに目の上の毛が白い。
ペットの死は、身内の死よりも悲しく涙が溢れ出ることがある。
我家は、イヌ好きだが、まだイヌを飼えない。

クロが死んだら、毛皮は尻皮にして、骨格標本をつくろうと思っていた。
が、しだいに弱って死んでいったクロを前にして、ただ、泣きながら庭に穴を掘るだけが精一杯だった。
一年ちかくもクロのことを思い出して涙が溢れ出たことがあった。

クロは庭の土の中では可哀想と掘り出され、写真とともに頭骨、骨盤とともに居間に置かれている。

2008年10月13日月曜日

秋の庭木の手入れ

秋晴れの中、徒長した庭木を伐り戻す。
黄色の花をたくさんつけてくれるモッコウバラの蔓をまとめていたら、この幼虫がいた。
可愛らしいので、撮る。
調べたらヒロヘリアオイラガの幼虫だった。
前部の赤い一対のトゲトゲがおもしろい。
ユズの枝を伐っていると、アゲハの幼虫がいた。
この子は、頭の当たりをちょっと突くと頭部と胸部の境い目辺りからオレンジイロの二又に分かれる角のようなものを出して威嚇する。
この丸まってきたのは威嚇の体勢に入るところだ。 来春までにあとサルスベリを剪定し、お隣さんに枝を伸ばしているモミジを切らなくてはいけない。
わずかの庭だが、結構やることがある。

それにしても、この幼虫たちはこれからどうやって越冬するつもりなのだろう。
サナギで越冬するのかな?
それとも成虫となって越冬するのかな?
山だと、越冬昆虫はサルたちの格好の御馳走だ。

2008年10月12日日曜日

園芸品種のムラサキシキブ

近所のお家の垣根越しに溢れ出るように実をつけているムラサキシキブ:
園芸品種ならでは実の大きさと多さである。
野生のものではこのようにたくさん大きな実をつけているのは見たことがない。
ムラサキシキブという木の名前は、湯河原のサルを追い出してすぐ知った。
この木とこの実の色と大きさが、いかにも平安時代の風雅な女性の感じであった。
しかし、こうも大きな実をたくさんつけている園芸品種は、マスカラをつけて、クチビルにもピアスをつけてヘソを出して電車のつり革につかまる女性のようだ。

キンモクセイの香り

昨日、健康診断の結果を聞きに近所の内科に行った。
キンモクセイの香りが漂っている。
多くの家の庭に、キンモクセイが植えられており、金色の花が目立つ。
キンモクセイはこの時季に、自分を主張するので、植えられている場所がわかる。
内科の庭のキンモクセイが信じられないくらい花をつけていた。
家に戻ってカメラを持ってきて撮った。
キンモクセイの花が終わるといよいよ秋本番を迎える。
我家の庭のオニユリやカサブランカのユリの茎や葉も茶褐色になり始めて倒れ掛かっている。
そろそろカトレアなどを室内に取り込まなければいけない。

山では、サルの尻や顔も色づき始めて、「ガッカ、ガッカ、ガッ!」とメスザルを狙って群れに近づいてきたハナレザルが木揺すりをしていることだろう。
あるいは、オスジカが悲しげな「ピーーー」という声を張り上げているにちがいない。
大型動物たちの恋の季節の始まりだ。

2008年10月11日土曜日

シュウメイギク

庭の白とピンクのシュウメイギクが咲いている。
この花はなんとなく日本的風情とは違った印象を与えてくれる。
シュウメイギクに出会ったのは、今から30年くらい前に岡山県高梁市にある臥牛山のサル調査の時であった。
臥牛山の山頂の備中松山城の石垣に咲いていた。
お城の管理の人から花の名前を教えてもらった。
クレマチスやアネモネと同じキンボウゲ科であることを知った。 下は、タンザニアのマハレ山塊国立公園で、雨季が始まってからの肌寒い時に咲いているものを撮ったものである。これは葉の形からしてキンポウゲ科であり、シュウメイギクの原種と思っていた。 今朝、小雨の中、 シュウメイギクを撮ったので、生まれはどこなのかネットでみたら中国原産とある。
すると、マハレで撮ったものはシュウメイギクの原種ではないということになる。花は下向きに咲いているので、違うものなのかもしれない。

2008年10月10日金曜日

ヨルガオが咲く

ヨルガオって不思議だ。
昨年は9月下旬頃から咲き始め
今年は、今日咲いた。
どうやって受粉するのだろうか?
昆虫の少なくなった秋になって、夜になって咲く。
匂いは無い。
ただ、この白さが月明かり、星明りで良く目立つ。

2008年10月9日木曜日

もらったアメリカモモンガ

もらった、アメリカモモンガ(Glaucomys volans)の生後3、4ヶ月の死体:
この鉢受けの内径は15センチである。
これは、6日(火)に専門学校の学生からもらったものである。
学生はペットショップから死体をもらったようだ。
ホルマリンに浸けていたのか、少しホルマリン臭さい。

今日は外出する用事がないし、朝から快晴なので処理した。
学生との約束で、①剥皮し、毛皮の標本をつくる、②解体、除肉し、腐らして骨挌を晒骨する、③その様子をメールで知らせる。

問題は、いつ死んでいつホルマリンに浸けたかであり、上手に剥皮できないかもしれないという恐れがあったが、首尾良く手首、足首のところまで剥皮できた。
すぐ、皮を棚板の裏に画鋲で留める。

痩せた個体で脂肪分は殆んどないので、お腹を開けただけで内臓も取り出さないで、そのまま水につける。

3、4ヶ月のチビなので、頭骨の各部分は縫合していないかもしれないので、身体部分とは別にして水につける。

このような仕事はいつも気持ちの良いものではない。
それでも、知りたいという欲求が学生が持っていたモノを云わば強引にもらいうけた。

ネズミ(齧歯)目の動物たちは、草食と肉食、雑食の歯の違いや、跳ねるものと殆んど跳ねないものの足の骨の違いなど、知りたいことがたくさん。

はじめて教会へ

葬儀場などでの、仏式のお葬式には何度か出席した。
煌びやかととも思える祭壇、
供花が所せましと並べられる。
しかも、それぞれの供花には、兄弟一同、〇〇会社会長、県会議員、市会議員、△△家、〇△家などまるで、この時とばかりの自己宣伝の場と化した祭壇となる。
弔辞も普段の付き合いの薄い人ほど、電報で自己宣伝をする。

葬儀場での供花や弔辞に戸惑いを覚えるのはぼくだけではないだろう。

知人のお母さんが89歳で逝き、
告別式が南林間駅近くの教会であるという。

10分前に教会に行き、はじめて細くて長い机を前にして座った。
正面の壁には大きな十字架がかかっている。
右手にはアップライト式のピアノくらいの大きさのオルガン。
オルガンをひいているは60代くらいの痩せた女性。
前奏曲はバッハの重厚なものだ。

時間がきて、牧師が前に立つ。
参列者一同賛美歌を歌う。
受付時に手にした式次第に、歌詞や楽譜が載っている。
祈祷があり、聖書の一部「賛歌。ダビデの詩」詩編23編1~6節が唱えられる。
賛美歌を再び歌う。
説教、祈祷、三度目の賛美歌を歌い、
牧師がの祝祷があり、友人が親族を代表して挨拶をする。
祭壇に並べられていた花を、棺の前に献花する。

出口付近で親族の方々が並んでおり、参列者にお礼を言っている。
ぼくは、友人と互いに目を見合って手を握り合い、「またね!」と教会とあとにした。

これほど、気持ちの良い葬儀に出たのは始めてだ。
良いと感じたのは、①簡素さ、②判り易い牧師の言葉、③一緒に歌うことによる開放感と一体感、③煙たくない事、④オルガン伴奏の重厚さがある。

2008年10月8日水曜日

世知辛い世の中(2)

実家は幼稚園をやっている。
この50年、幼稚園が休日のときでも
近所の子供たちが自由に園庭に入って
滑り台やブランコなどの遊具で遊ぶことができるようにしてきた。
が、各地の公園でブランコの事故があってから、
夏休みや冬休みなどの長期休暇が始まると、
ブランコを外すようにしているようだ。

事故があると悪いのは子供やその親ではなく、
遊具を設置していた側の管理責任を問われることになるからだ。
地域とともに幼稚園があるのだが、
休日の時は自由に園庭に入れないようにしようかと迷っているいるようだ。

あるいは、ぼくは学生を連れて野外実習をやっている。
山では予期せぬ事故があるので、いろいろ事故にあった時のことを考える。
学校側からも学生に怪我をさせないように注意を受ける。
学生たちに素晴らしい体験をさせたいと思っていることが裏目に出てしまうことだってある。

今の学生たちは子供の頃に外遊びをほとんどしていないので、
ぼくにとっては予測不可能なことをやらかす。
渋谷の街を歩くのと山を歩くのと同じだと思っているようだ。
事故があった場合のことを考えると
学生たちを山に連れていけない気持ちになる。

釣り、昆布、イナゴは過度なる自己防衛であり
自分たちが作った権利の主張である。

それは、子供や学生の事故を
その管理及び責任者の側へ押し付ける考え方と根は同じだ。

川や海岸や山や、園庭や校庭でさえも自由に出入りできなくなれば、
ますます子供を含む人々は外遊びができなくなる。
さまざまな自然に触れ合う機会が失われ、
人々は歩かなくなり、
車窓から眺める押し付けられた景色を自然と思ってしまう。

海岸や川岸や山に自分の足で歩いて、
自然の息吹を、美しさを、
楽しさを、恐ろしさを、苦しさを味わってもらいたい。

この世知辛くなった世の中を変えていかねば、
人々はますます自己の権利を主張し、
子供はますます外遊びをしなくなり、、、、、、、。

人々はもはや五感で危険を察知することさえできなくなってきている。

2008年10月7日火曜日

世知辛い世の中(1)

夏に釧路に帰省した時、兄貴に内地(神奈川県)での川釣りの話しをした。
いたるところで規制があり、好きな時に魚釣りができなく、モツゴやオイカワという小魚を釣っていたり、ヨシノボリをすくっていても漁業関係者がきて、
「許可証は持っているか?」
「今は禁漁期間だ!」
「ここで魚を釣ってはダメ」と云われてしまう。

兄は家族で昆布森海岸に行ったときのことを話してくれた。
小さな子供を連れて陽の当たる砂浜を歩き、お弁当を食べて遊んでいた。
4歳になった息子が砂浜に打ち上げられている昆布を引っ張ってきた。
すると、60歳くらいの頬被りをした腰の曲がった女性がやってきて、
「お宅たち、漁業権を持っているのか?」と怒鳴ってきたという。
その言葉と迫力に驚いて、兄貴たちは声も出せなかったようだ。
小さな男の子が1メートルくらいの昆布を引っ張ったことくらいで、、、、。

川や海岸がいつから漁業組合のものになったのだろうか?

知人のYさんは先日、天気が良いので、5歳になる甥っ子と近くの川に遊びにいった。
川沿いの田圃の稲は、稲穂が金色に輝いていた。
田圃の周りの草叢を歩くと、イナゴがピョンピョン飛び回る。
甥っ子とイナゴ捕りをし始めていると、田圃の持ち主と思われる人から、
「お前たち、誰に断ってイナゴを捕っているんだ?ここはうちの田圃だぞ!」と怒鳴られたそうだ。
あまりの剣幕に、ビニール袋に居れたイナゴを放して、帰ってきたようだ。
畦道でイナゴを捕った訳でもないし、ましてや田圃に入った訳でもない。
イナゴは稲を食べて大きくなったことであろうが、川の土手のイナゴの所有権なんてあるのだろうか?