サツマイモ掘りの作業は、先ず畑を覆うサツマイモの葉や蔓の地上部を一畝ごとにどかす事から始まる。Noboruさんが鎌を持って、根元を切り、3人がかりで葉や蔓を引っ張って丸めて片側に並べる。
ぼくは、軍手をつけ、帽子を被り、山靴を履き、膝までのスパッツをつけヤッケを着て作業を始めた。が、すぐに暑くなったので、上半身はヤッケやセーターを脱ぎ、帽子も取り、首に巻いていたハンカチも外す。Noboruさんに畝にフォークを突き刺してサツマイモ全体を浮かせてもらう。ぼくは中腰になれないので、両足を畝に着いて両手でサツマイモを掘る。このような這い蹲ったような姿勢は、山ではシカ柵の穴を通る時や、倒木を潜ったりする時だけなので、二株を掘ったくらいの15分くらいでもうギブアップ状態になる。でも、Noboruさんの奥さんのKさんと二人で、畝の端から中央に向けて掘っていく。一畝の半分も掘らない内によろけるように立ち上がりスポーツドリンクを飲みに行く。彼女はそのまま続けて掘っている。
図1. サツマイモ畑
図2. 掘り出したシルクスイート
図2'. 収穫したシルクスイート
半分を終えたので、お昼だ!ぼくはインスタントラーメンと生卵を持っていったので、山用ガストープでお湯を沸かして食べる。Noburuさん夫婦は卓上コンロでお湯を沸かしカップラーメンだ。ぼくは、出された漬物やリンゴやカキ、菓子なども食べる。
ぼくはNoboruさんが子供の頃の境川の土手について訊く。当時の土手は幅2メートルくらい細い竹が密集していて、そこを分け入って魚釣りをしたようだ。フナ、ウナギなんかが釣れ、泳ぎもしたようだ。
何よりも驚いたのが当時の境川には水に潜る巨大なネズミのようなものがいたと云う。え?それはカワウソだ!
当時と今の土手の違いについて話し合う。土手が護岸工事の為にコンクリートで覆われてしまったので、流れが速くなり、カワウソやイタチがいなくなってしまい、高校生くらいの時から生活排水や工場の排水で汚れたのでとても泳ぐ気持ちにはならなかったようだ。
図3. 収穫したサツマイモ
図3'. 収穫した甘くねっとりした安穏芋
ぼくが、1966年に逗子に住んだ時の逗子海岸は、ビニール袋などのゴミがたくさん浮いていた。多摩川はまるで洗剤で白く泡立っているような状況だった。金沢八景でハゼ釣りをしても奇形のハゼが釣れた。当時の日本は経済成長の右肩が急激に伸びている状況だった。川崎市の工場群の煙による公害はむろんのこと、湯河原を含む各地で奇形ザルがたくさん生まれ、人のサイドマイドなどの薬害も60年代から70年代である。果実や野菜の農薬問題もあって、海の汚染が叫ばれた。当時、魚や牛乳の摂取まで農薬による汚染で問題視された。今の海は当時よりもさらに汚染が進んでいるだろうに、、、、、。中国やインド多くの発展途上国が、今、問題となっている環境汚染を日本は経験し、水俣病で死んだり、病気の後遺症を抱えている人たちもいる。
公害病の源の大半、企業の姿勢の問題だ。個人個人も環境を汚染させない努力をし続けなければいけない。
ぼくは、カブやナスを貰って先に帰ってきた。彼らはこれから後片付けと掘ったサツマイモの干すために並べなくてはならない。それを知っていながら戻ってきたので後ろめたい。
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