ぼくは台湾には凄い思い入れがある。まだ20歳の1967年3月に台湾に船に乗って行ったからだ。鹿児島まで汽車で行き鹿児島で一泊し、3月2日に鹿児島港を出て3日に那覇港に着き、6日に泊港から出て8日に基隆港に着いている。
このような詳しい日程は当時のパスポート(下記)を見て分かった。泊港を出てから基隆まで石垣島に寄ったりしながらであり、サンマ漁船よりも一回り大きな貨客船は、島に寄ると台湾からの出稼ぎの人たちがニワトリやヤギなどとともに乗り込み。甲板はヤギやニワトリが入った竹籠や荷物などが積まれていた。客室は異様な臭いの船底であり、東シナ海の荒波で揺れて戻したくなるので、ぼくは甲板の船縁で船とともに飛ぶトビウオを眺めて過ごした。船酔いのため食事はとても食べられなかった。
当時沖縄はアメリカの統治下であったので、麻布の大使館に行って通過ビザを取り、円をドルに換えた。そのドルで那覇の国際通りでジョニ黒を買い、マルボローを買ってホテルで皆で吸い飲んだ。ぼくらは台湾の生物調査と云う名目で、先輩3名とぼくとの4人の隊であった。もちろんぼくはタイワンザル担当だ!当時の大学の地学を教えてくれたのが台湾出身の林先生であり、床屋を含むありとあらゆる屋台が並ぶ台北で二日間に渡って案内してもらう。
帰路は4月7日に基隆を出ている。ほとんど1ヶ月の台湾滞在であった。
当時のパスポート
当時の台湾の人々は日本の植民地であったため、殆んどの人が日本語を理解し話すことができた。そして強調したいのは亡くなった李登輝氏に代表されるように日本に対して親しみを持っており、おじさん、おばさんが日常語であった。ぼくらは行く先々で大歓迎を受けた。2回目に行った時には向こうの人たちと話し込むことができるようになり、彼らは自分たちを第二日本人と思っており、戦後、日本が引き上げたあと蒋介石などと大陸から渡ってきた人たちを外省人と云って嫌っていた。台湾と戦争をして日本は台湾を取り戻して欲しいなどとも云われたことさえもあった。
台湾に元から住んでいた高砂族の人たちも含めて、日本の支配下にあった人々は、国民学校で日本人、台湾人、高砂族の区別なく宿題を忘れたり、悪い事をした者は殴られたと云う。勉強やスポーツのできる者は誰もが優遇されたようだ。袖の下が効かないのが日本の統治下の台湾だったようだ。それが外省人がやってきてからは汚いやりかたが蔓延ったようだ。
台湾には観光も含めて6回行った。親しくなった台湾の人たちからはこちらがお返しできないような歓迎を受けたくさんの御土産を貰った。娘がアメリカの大学で中国語を学んだ時に夏に台湾のサマースクールで出かけ向こうの家にホームステイした。そこでも大歓迎を受け、娘が困るようなたくさん御土産を持たされた。このような気質・風習は大陸の中国の人も含めて一緒かもしれない。
日本は中国に配慮して台湾という国を認めないでいるが、台湾の人たちの日本への気持ちを思うと日本政府の態度が許せない。政府は経済的に強い国にも物申すフランスのような国になって欲しい。
台湾の人たちの日本に対する思いと韓国・朝鮮の人たちの日本への思いの違いはどうしてなんだろう。ぼくは韓国にはサルがいないので行ったことがないが、連れ合いに拠ると韓国の食事は旨いし何度も行きたい国の一つらしい。
最後に、台湾の食事はどれも日本人には合って旨い!
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