GPSの軌跡の記録では16.4キロとなっているが、そんなに歩いたとは思われない。
GPSの記録では、札掛から物見公園橋を渡って1.5キロ、さらに小唐沢橋まで3.9キロで、山の神の祠まで7.3キロとなっている。このGPSの軌跡記録を正しいとしたいが、どうなのだろう。
それは、ともかく、前回アップしたように、小唐沢橋の右岸よりのところから唐沢川の右岸を歩くが、20メートルも歩かないですぐ河原に下りて、川中の石を跳んで左岸を歩くことになる。そこには炭焼き釜の跡がある。小唐沢橋から10分もかからない。歩くコースを知っているなら3、4分の場所。
踏み跡もあるので、しばらく左岸歩きが続く。左下には唐沢川の流れが見える。
ヒルがいなかったら、夏場は恰好の水遊び場だ。
小唐沢橋から15分で、大岩が出てくる。この岩に下は雨避けになりそうだが、ちょっと怖い。
ここにも炭焼き釜の跡がある。
上の炭焼き釜から歩いてすぐ、古いクマの爪痕だが、2、3年前のものだ。
この木は何の木だろう?
爪痕が縦に2列に並んでいる。クマはこの木の幹を抱きかかえるようにして下りてきた痕だ。
登った時のは古いため判読できるが写真にはできなかった。
この10分後、右岸に渡るがここも岩を巻くことができないため、再び左岸に。
何だか、唐沢川の両岸の岩場は、春にはハナネコノメやキクザキイチゲ、夏にはビランジが咲き誇るのではないだろうか?
左岸の岩場を歩いていると、沢登り用の手袋が掛けられていた。
この手袋の場所から10分後、
11時1分に地図上の「水が少ない」と記した沢に着く。ここから水が少ない沢の南西方向を見上げるとすぐ側に送電線の鉄塔が見える。本流らしき流は大きく東にカープしている。
水がすくない沢
ここで、地図とコンパスを見て、左右を見渡す。本流の唐沢川は東に見える。
下の写真の右側、つまり唐沢川の左岸の斜面を登る。
もう鉄塔の尾根に登って行きたい感じにもなる。が、そのまま唐沢川の左岸に沿って斜面を登る。斜面を登って、すぐ丘陵地のような状態となる。
すると、お茶碗転がっている。人が住んでいたんだ。手前の欠けていない茶碗は別のところにあったが、一緒にして写す。他に今は無くなったほうろう引きの金盥もあった。
ここに住んで炭焼きをしていた人たちは、どこに拠点の住処があったのだろう。
唐沢峠を越えて日向薬師の方か?あるいは、物見峠を越えて煤ケ谷だろうか?
当時は大変苦しい生活だったことだろうが、山の生活の楽しさもあったことだろう。
さらに、この丘陵地を歩いていくと、大岩を樹の根が覆っている。
もう、山ノ神が出てきても良いかな!と予感があった。
上の写真の左奥に山ノ神の祠があった。
それにしても屋根がかなりおかしい。左右対称ではない。不思議な屋根だ。
左右、前後に文字が書かれているが、まだしっかり読み込んではいない。
とこかく、唐沢川左岸の淵にあたるこの丘陵地には、数家族が住んで炭焼きをして生計を立てていたんだ。唐沢川ではイワナもたくさん釣れたことだろう。
春の山菜や秋にはキノコやサルナシなどの果実をたくさん採って食べたことだろう。コジュケイやヤマドリ、ウサギやイノシシも罠を掛けて捕っただろう。
この場所や炭焼き釜とともに、紀伊半島の吉野熊野の森で、炭焼きの生活を子供の頃に経験し、作家となった人の事を思い出した。
昨日山から帰ってきてから、本棚を探しているが、
3、4冊あるはずの彼が書いた本を一冊も見つけられず。
山の炭焼きの生活や動物の話しや川遊びでモクズガニを取って食べた話しに魅かれた。
作家の名前も思い出さないので、先ほどいろいろネット検索したら、判った。
宇江敏勝氏だ。
ぼくにとっては憧れの山の生活ではあるが、実際は厳しいものである。
キャンプしたりするのは、そんな不便で厳しい生活に憧れているところもあるからなのだろうか?
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