アメリカセンダングサやススキが秋の気配、向こう側は横浜市。
近隣の花好きの人が植えたと思われるコスモス(秋桜)がサイクリン道路沿いで秋の陽を受ける。
何故、秋は物悲しくなるのだろうか?
あんなに嫌に思った蒸し暑さがなくなったのだから、喜びに満ち溢れた気持ちになってくると思うのだが、そうではない。
夏の暑さが恋しくさえ思うのは何故なのだろう。
冬から春になった喜び、春が近づいてくるウキウキした気持ちになるのは解る。
が、秋の寂しさ、人恋しさは何故?
と、アフリカのタンザニアに3年居た時のことを考えた。
雨季に入った時の喜びがある。
半年くらい乾期が続き、木や草ばかりでなく土や岩も乾ききってしまい、川床を掘ると腐ったような水が染み出してくる。それでも飲む。
ジーパンは洗って絞らなくても2時間くらいで乾いてしまう。
ありとあらゆるものが水を欲しがる。
そんな時にしだいに空気が湿ってきて、ダッダァーと雨がくる。
これは、水が欲しいので現実的な喜びである。
しかし、雨季が2、3週間くらい続くともう嫌になり、乾期が待ち遠しくなる。
乾期が来ると、ようやく雨季が終わってくれたかという喜びとまた水を求めて歩かなければならない思いが交差する。
タンザニアに居た時には、気候によって感傷的にはならない。
日本の四季はそれだけ穏やかであるということで、心に余裕を持たせてくれるのかな?
2 件のコメント:
世界は狭くなってしまったけど、自然の摂理からみたらとても広いと思いますね。
アフリカにもひとっ飛びで行けるけど、同じ遺伝子をもつ人間なのにカラーも体付きも違う。
これはやはり自然や環境の違いが作り出したものでしょう。
それから考えても、社会のありようはもう少し足元を見つめなおすことから始めた方がいいように思います。
たぶんですが、ほんとうに好きな心の落ち着く故郷に住んでいるなら、秋はものがなしくないかもしれませんね。
ぼくはサルを含む哺乳類をみてきたので、どうしても、自分を見つめる場合でも、動物学的な方法を用いて考えたいと思っています。
「物悲しい」のは、気持ちの問題なのですが、それを動物学的手法を用いるには、「物悲しい」気持ちを表す、行動や生理がどのようになっているのか明らかにしなければいけません。
生理や生化学的分析はぼくの専門外ですので、生態・社会学的な分析ができないものか?と考えております。
環境が形態ばかりでなく、住む家や思考、自然観までも変えてしまう。
日本の海や森の自然と四季が日本人の思考を形作っていることは間違いない。
ぼくの自然観も冬の荒涼とした東北海道の自然から培われたものであることは間違いない。
そこで、「ほんとうに好きな心の落ち着く故郷」というのは、どいうことでしょうか?第2、第3、第4の故郷なりがあるということ?
この問題はそのうち、じっくり呑みながら話した方が良いのかな?でも、いつもワーッと騒ぎながら呑んでしまう。
「いつまでも学生の時の呑み方だ」と連れ合いから批判されます。
この頃は、呑んだ翌日は落ち込むことが多くなった。
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