あと数日で92歳になるお袋が脳梗塞で倒れたのが一昨年の暮であった。
入院していた頃の症状:
視野狭窄が生じているようで、ぼくの顔が半分しか見えない。
字は全く理解することができない。平仮名でさえも読むことができない。
しかし、字を書くことができる。難しい漢字さえも書くことができる。
顔つきは呆けた感じ。
1ヶ月後の1月下旬には退院して10月までの症状:
テレビを見ることができない。読み・書きに関しては入院時の状態。
自分の記録を書き始めたが、書いたものを読み返すことができないので、途中で挫折。
妹を含め近親者に対して、烈火のごとく怒る。
同じ事を1日に何度も聞く。
息子・娘の言に従わない。
顔つきは般若の如し。
11月から2009年1月の現在までの症状:
テレビを見、新聞を読む。
年賀状を書く。
昨日から自分でテレビをつけられるようになった。
昨年の病状について尋ねたが、覚えていないようだ。
顔つきが脳梗塞前の顔に戻っている。
朝・昼・夜と三回薬を飲んでいるが、その量が半分になっている。
脳梗塞で、詰まっていた毛細血管の流れが良くなっているのかもしれない。
自分では、あと5年くらいは生きそうだと云う。
今回は実家に戻り、始めてお袋に感謝される。
脳梗塞後、退院して家に戻ってから、風呂のスイッチ(ぼくは複雑すぎて出来ない)、トイレの操作、戸締り、ガスストーブの火の点火・消火、ガスレンジの点火、電子レンジで食物を温めるは、問題なくできるが、テレビのリモコンの操作、電動按摩椅子の操作は出来なかった。
これが、ぼくがいる間に、テレビや電動按摩椅子の操作ができるようになった。
テレビや按摩椅子は脳梗塞になる前の2年前に買ったものであるが、他はもう15年近く馴染んだものである。
トイレも家のものは操作できるが、病院ではどうしたら良いのか一人では使いこなせない。
老人にとっては馴れた物や事が一番である。ぼくでも電車の切符を買うのに切符販売機に手こずることが多い。高齢者医療制度の変化を含めて、めまぐるしく変わる世の中は老人にとってはさぞかし住み辛いことは疑いがない。
政府は、50年、100年を見据えた変わらない政策を打ち出して欲しいものだ。また、めまぐるしく出てくる新製品、売らんかなの小刻みの新製品は止めてもらたい、10年、20年でも部品交換ができる良い製品を作って欲しい。それが、環境をも考えることに繋がるだろうし、高齢者にとっても安心して暮らせることになる。
「特定秘密保護法反対」
「特定秘密保護法」、「集団的自衛権」に反対します。憲法第9条をしっかり守りましょう。教育勅語の教材活用は間違いだ!
自由であっても、他人の生まれ、身体、性別、年齢、故郷、風習、宗教、民族、国を差別する、小馬鹿にする、冒涜するのは許されない。
原発不要・核廃絶
2009年1月4日日曜日
和商市場
2009年1月3日土曜日
阿寒国際つるセンターまでの「まりも国道」
車の中から「阿寒国際つるセンター」までの道沿いの景色:
国道240号線は、釧路から網走までの一般国道だ。釧路から阿寒湖までを「まりも国道」と呼んで親しんでいる。
大楽毛から、「まりも国道」に入った車窓からみた景色
ふくら雀になっているせいか、神奈川県でみるスズメよりも一回り大きい感じがしたので、何度もお前たちスズメだよね!と確かめてしまった。
2009年1月2日金曜日
ツルセンターでの給餌
タンチョウヅル雪原に広がってなんとなく手持ちぶたさ。
タチョウたち同じ方向に目を向ける。
タンチョウもカラスもカメラパーソンたちも騒がしくなる。

タンチョウもカラスもカメラパーソンたちも騒がしくなる。
餌(何か不明、ドジョウ?トウモロコシ?)を撒きはじめる。
オジロワシたちが十数羽旋回し始める。
何羽ものオジロワシが餌を取ろうと急降下し始める。
この時、餌がトウモロコシではないことを知る。
カメラパーソンたちのお喋りは完全に止み、シャッターを押すと同時に3コマ撮れるように設定している音が響き渡る。


この時、餌がトウモロコシではないことを知る。

2009年1月1日木曜日
阿寒タンチョウ観察センター分館
昼食後、温かくなってきたのでお袋を連れて阿寒国際ツルセンターに妹の運転で行ってきた。
「生まれて始めて野外でこんなに多くのタンチョウヅルを見た!」お袋が感激して云う。
タンチョウヅル、カラス、オオワシ、オジロワシ、スズメ、キタキツネをみた。
温暖化の影響か?
元旦なのに道路の雪が解け、しかも阿寒は釧路に比べるとはるかに雪が多いところなのにせいぜい30センチくらいなものか、、、。
元旦なので国道はトラックなどの営業車は走っておらず、車はちらほらしか見えない。
が、阿寒国際ツルセンターの駐車場は空いているところを探さなければならないほどだ。
別館のタンチョウ観察センターに行って大人一人400円を払って外にでると、200羽以上いるタンチョウヅルを写真に撮ろうとする中高年のカメラパーセンの人たちが6、70人はいる。
多くは、一メートルはあろうかと思えるような長い筒上のレンズをつけて、お喋りをしながら何かを待っている。
おそらく大半のカメラパーソンはアマチュアなのだろう。男性ばかりでなく女性もいる。顔馴染みがいるようだ、声を掛け合い、鶴居だ、羅臼だと話しをしている。情報を交換し合っているようだ。
オジロワシが十羽くらいでやってきた、ジー、ジー、ジーと皆レンズを向けてシャッターを押す。
ぼくは、思わず、カメラパーソンたちを撮ってしまった。
「生まれて始めて野外でこんなに多くのタンチョウヅルを見た!」お袋が感激して云う。


元旦なのに道路の雪が解け、しかも阿寒は釧路に比べるとはるかに雪が多いところなのにせいぜい30センチくらいなものか、、、。
元旦なので国道はトラックなどの営業車は走っておらず、車はちらほらしか見えない。
が、阿寒国際ツルセンターの駐車場は空いているところを探さなければならないほどだ。
別館のタンチョウ観察センターに行って大人一人400円を払って外にでると、200羽以上いるタンチョウヅルを写真に撮ろうとする中高年のカメラパーセンの人たちが6、70人はいる。
多くは、一メートルはあろうかと思えるような長い筒上のレンズをつけて、お喋りをしながら何かを待っている。
おそらく大半のカメラパーソンはアマチュアなのだろう。男性ばかりでなく女性もいる。顔馴染みがいるようだ、声を掛け合い、鶴居だ、羅臼だと話しをしている。情報を交換し合っているようだ。
オジロワシが十羽くらいでやってきた、ジー、ジー、ジーと皆レンズを向けてシャッターを押す。
ぼくは、思わず、カメラパーソンたちを撮ってしまった。
新年おめでとう御座います。
2008年12月31日水曜日
釧路港
米町公園から港湾を望む
ぼくが子供の頃は釧路川河口の港だけだったが、今は、対岸の新釧路川河口に西港ができている。

彼女が若い時の繁華街の南大通りがしたに見える。
日陰は滑るのでとろとろ運転、日向は融けてアスファルトが見えている。
米町公園から港の写真を撮っていると、30歳前後の女性が近寄ってくる。
なんと、寒いのに缶ビールを飲み、タバコを吸っている。
「写真を撮ってくれませんか」という。
驚いて「え!」と声を出してしまった。
何のことはない、彼女は携帯を出してここを押して欲しいと上の柵に寄りかかってポーズをとる。
一枚、ジーットいう音とともに撮る。彼女に出来栄えを見てもらい。もう一枚。
一枚、ジーットいう音とともに撮る。彼女に出来栄えを見てもらい。もう一枚。
この場所にくると何となくロマンチックになるから不思議だ。
2008年12月30日火曜日
雪が降る
釧路は雪が少なく、氷の街である。
が、今年の暮はしばしば4,5センチの雪が降る。
人々は道が凍らないことを祈る。
こんな雪降りの日でも、庭に残っているヒメリンゴの実をヒヨドリが食べに来た。
左の木がヒメリンゴである。
人の住む処ではない、、、。
高校を卒業し、上京して初めての夏に出合った。

釧路に居たとき、ただじっと座っているだけで汗が額から流れ落ちる、身体中がべとつくなんていうことは経験をしたことがなかった。
汗がでたり、身体が汗でべとつくのは、子供のように走り回ったり、木を切るために鋸を曳いたり、スコップで雪掻きをしたりなど身体を使うと汗がでたものだ。
汗がでたら、動いているのを止めて休めばすぐ汗がひき、涼しさが戻ってくる。
しかし、東京近辺の夏はただじっとしているだけで汗がでる。
寝ていても汗がでる。
この不快さに、「ここは人の住むところではない」と思った。
が、東京近辺のそんな夏も、サルを追うようになってなんの不快さも感じなくなった。
逆に夏の暑さ、蒸し暑さを焦がれるようにさえなった。

帰省して、数日前二日続けて釧路の街を歩いた。
舗装道路を含む、地面は凍っており、手入れの悪いスケート場を歩いているようなものである。
15分も歩いていると足の爪先が冷えてくる。
手袋をつけているのにも手が悴んでくる。
耳や頬が痛いような冷たさを感じる。
強い風が一吹きして襟元に風が入ってくると体中が凍るのではないかと恐怖を感じる。
「ここは人の住む処ではない」、春から秋なら住めるが真冬は人の生活には適さないという思いが強くなっていた。
釧路市動物園で、アムールトラやシロクマやキリンを見た帰り、車の中で老母は動物たちがあんな寒いところにいるなんて可哀想だという。
釧路の寒さで元気に動き回っているトラの子供やシロクマたちは幸せそうだった。
温かい部屋の中で過ごしているお袋にとっては「寒いところは快適だ」と感じる動物がいるということが理解できないかのようだ。
ぼくの身体は、生まれ故郷の寒いところに合った身体ではなく、じっとしていても汗が出るようなそんな南国に生活に適した身体になっているようだ。
となると、上野動物や横浜ズーラシアのシロクマたちも関東地方の気候に馴れた身体になっているのだろう。
南国生まれのキリンでさえも釧路の冬にでも外で暮らせるようになっている。
ぼくの身体は温かい関東地方の気候に馴染んだものになってしまっている。
「住めば都」というが、この言葉はその土地の風土に心身ともに馴染んでしまうことを云うのだろう。
2008年12月29日月曜日
凍てつく新釧路川
新釧路川は凍っている。
新釧路川は釧路川の氾濫を防ぐために1931年作られた運河のようなものである。
もし、この人工河川が作られていなかったら、釧路湿原は広大なものとなり、我が実家も卒業した中学校もなかったろう。
湿原は、原野・谷地とよばれて忌み嫌われていた。
が、子供にとっては外遊びの場であった。
春は、スズランやアイヌネギやコゴミなどの山菜採り、谷地坊主の上を跳びまわり、谷地まなこに睨まれて怖い思いをした。
夏は、ドンコ、トンギョ、ヤチウグイ、ドジョウ、アメマスなどの釣り遊び、
キリギリス取りや小鳥取りに暗くなるまで過ごした。
秋は、コクワやヤマブドウ狩りで終日、原野にいた。
冬は、スキーをはいて雪原をどこまでもどこまでも歩けた。
今の子供たちは装備は良くなっているはずなのに、外遊びをする風の子がいない。
ぼくらの頃は、外で同じ年ごろの子供たちと夏でも冬でも遊びまわるがの楽しくてしょうがなかった。
新釧路川は釧路川の氾濫を防ぐために1931年作られた運河のようなものである。
もし、この人工河川が作られていなかったら、釧路湿原は広大なものとなり、我が実家も卒業した中学校もなかったろう。

が、子供にとっては外遊びの場であった。
春は、スズランやアイヌネギやコゴミなどの山菜採り、谷地坊主の上を跳びまわり、谷地まなこに睨まれて怖い思いをした。
夏は、ドンコ、トンギョ、ヤチウグイ、ドジョウ、アメマスなどの釣り遊び、
キリギリス取りや小鳥取りに暗くなるまで過ごした。
秋は、コクワやヤマブドウ狩りで終日、原野にいた。
冬は、スキーをはいて雪原をどこまでもどこまでも歩けた。


ぼくらの頃は、外で同じ年ごろの子供たちと夏でも冬でも遊びまわるがの楽しくてしょうがなかった。
まだ、氷は3、4センチで薄く軟らかいので、上に乗ることができなかった。
おそらく、正月過ぎには歩いて川を渡れるだろう。
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