先日、テレビを見てはっと思った:
箱根駅伝で30年前、40年前の映像が流される。娘「皆、オヤジの身体つき!」。
成人式の特集で糸井重里氏と立花隆氏が爆笑問題と、糸井氏と立花氏の二十歳前後の写真がでる。
糸井氏、ジーンズに革ジャンでバイクに跨る。
立花氏、背広姿でネクタイを締めコートを羽織ってロンドンの街頭での写真、爆笑問題氏「わー、オヤジ!」
ぼくは団塊世代の波頭に立つ。
糸井氏の世代であり、立花氏はかなり上に思っていた。がそうは違わない。しかし、ぼくらの世代あたりで、大人への見方が変わっていった世代のような気がする。高校の時、昭和初期の二十歳前後の大学生が、英語やドイツ語やロシア語などの文学や哲学を翻訳しているのを知って驚いたことがあった。あるいは、明治維新を導いた志士たちも若い。が、肖像画では4,50代のオヤジである。
団塊世代も含めて以前の人たちは、大人への強い憧れがあったのではないだろうか?
そのオヤジ願望が仕草や体躯や思想にまで高められたのではないだろうか?
それが、今はオヤジになりたくない。
青春願望のような状態がずーと続いているのは何故なのだろう。
それは、経済成長を求めてきた、消費生活にあると考えられる。
常に新しいバージョンのものが発表され、消費者はそれに飛びつく。
新しいモノほど優れている。
古いモノはダメという考え方の流れが作られている。
オヤジ・オバン(=古いモノ)と蔑称され、さらに、元気の良い若者がもて囃されることから、それが社会全体の軽さを生み出している。
閉塞感があるのに軽い社会は、恐ろしく嫌な感じがする。
1 件のコメント:
加齢臭だの、アンチエイジングだの、老いに対する恐怖をあおってお金を吐き出させる商法にみんな踊らされています。
本当に必要なものだけでなく、本当は不必要なものまで必要だと思い込まされ消費することにより成り立っている消費社会ですね。
老人や目上の人に敬意を払うのが当たり前だったのが今では若い人にうざいの一言で片付けられてしまいます。経済が豊かにはなっても、何か危機感を覚えてしまう。
十代のうちから髪を染めたり厚化粧をしたり、公共の場での行いが下品だったり、敬語が使えなかったり、今の若い世代が年をとったらどうなるのでしょうね。
もっとも私たちが若い世代だったときも上の世代の人たちには同じように思われていたのかも知れませんが。
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