グローバル化した世の中になってきている。テレビニュースでは、経済・政治・スポーツ・文化などの世界中のことが当たり前のように目前に映し出されている。
一昨年の夏はベルギーに連れ合い等とビフトンさんに会いに行ってきた。彼とは奥湯河原の山で4、5年間サルの調査・観察で毎週4、5日は一緒に山小屋で一緒に暮らした。
彼は、朝早く起きて、洗顔をすまし聖書を読み終えると、前日の夕食時のご飯が飯盒の底に残っていると、いとも簡単に捨ててしまう。ぼくは、あのご飯は朝食用にオジヤにして食べれたのにと怒る。一方、ぼくは、牛乳が固形物と液体に分離したら捨てる。あるいは肉が腐ってネバネバしたような状態だと当たり前のごとく捨てる。このことで、彼はぼくを怒る。
ベルギー人のビフトンさんとぼくら日本人の食に対する文化が違うのだ。
ベルギー人のビフトンさんとぼくら日本人の食に対する文化が違うのだ。
腐った牛乳はザルに静かに空けて、固形物を取り出し。スプーンでヨーグルトのようにして食べる。腐って臭いがする豚肉は、細切れにし、その肉にガーリック、胡椒、玉葱、その他の香辛料と塩とパンの切れ端を混ぜて、コネル。それに形を整えてハンバーグにして焼くのだ。もの凄い悪臭が立ち込める。
それを、彼は美味しそうに食べるのだ。もちろん、ぼくも食べた。意外や意外、食べられるのだ。それで腹痛も起こさないから不思議だ。
あるいは、タンガニーカ湖では、カラス貝のような貝の仲間が湖底の砂に隠れている。ぼくは潜って採って、水泳パンツの中に容れて上がってくる。これを焼いたり、煮たりして食べた。同じように湖の岩礁には片手を広げたくらいのカニがいる。もちろん煮ると良い味がでるカニ汁となる。が、湖岸付近の住民は食べない。ぼくが食べるのを気味悪そうに見ている。
さらには、チンパンジー調査でヒョウが食べ残したイノシシの肉をぼくが美味しそうに食べると、湖岸の人々は自分の手で殺していない肉を食べるぼくを理解できない。
日本の中でも御雑煮の中身、餅を一つとってみても地方によって異なる。文化は地方によって国、民族、宗教によって異なるのだ。
分離した牛乳の固形物を食べても美味しいとは思わない。あるいは、タンガニーカ湖湖岸の人々にとってはカニや貝など食べ物とは思えない。肉でも人が殺した肉でないかぎり食べない。
ぼくらは生まれ育ってきた土地の文化の中で考えが育まれてきている。食物に対する考え方の違いはまだしも理解しやすい。が、方言は標準語では説明できない微妙な表現がある。ましてや外国語の翻訳はなにおかいわんやである。
日本のある企業では英語を社内の公用語としたことが話題になった。
明治の頃、フランス語を日本の公用語共通語にしようと考えた著名な文学者もいたようだ。
日本各地の方言が、地方の風土から生まれた言葉であるように、英語もフランス語も日本語もそうだ。日本語をもっともっと大事にしてもらいたい。安易な英語信奉を毛嫌いする。