2015年2月28日土曜日

糞2個からヤマネ、もう一つの糞の骨片は誰? Who are these bones?

テン糞②
下の写真の赤線で囲ったのは、齧歯目の切歯デアルことが判る。
左端は左上顎の切歯であり、長いのは左下顎の切歯だ。
上の写真の下顎切歯の上を拡大すると臼歯が2個あり、これは咬面がほぼ平らになっているので、ヤマネの臼歯だと判った。

 テン糞④
これにも小哺乳類の短い毛が混じっていた。
黄線で囲った骨片は尾骨で、赤線で囲ったものは指骨である。
赤矢印を拡大すると、これは第一指骨であり、カギ爪状になっている。
毛の長さ、および骨の大きさから考えてこの動物は、アカネズミくらいの大きさで、尾が長く、カギ爪を持つ動物ということになる。
isa隊員から送ってもらったリスの骨格標本のカギ爪よりもはるかに小さいので、
ヤマネかモモンガということになる。
ヤマネやモモンガの骨格標本を持たないので、確実なことは言えない。


 テン糞⑦
赤線で囲ったものは薄ペラな貝殻のようなものだ。
他の骨片はどこにあたるものなのか不明だ。毛が混じっていなかったので、
両生類か爬虫類の骨片だと考える。しかし、赤線で囲った貝殻状のものは両生類のカエル・イモリや爬虫類たちにもそんなものを持っている動物はいないというか、ぼくには解らない。
この貝殻状のものは何なのか?両性爬虫類の骨だとすると大きさからしてこれは頭蓋骨だ。
でも、こんな頭蓋骨などありえない!
これらの骨片の持ち主は誰なのか?

ほねやさんかどなたかお分かりになりましたら教えてください。
まだまだ、テンが食べたものが同定できない。
節足動物になるとお手上げ状態だ。
せめて脊椎動物だけでも判るようになりたいものだ。

2015年2月27日金曜日

テン糞の位置と中身  The locations and contents of seven marten's scats

24日(火)に歩いたルートで、見つけ拾ってきたテン糞の発見場所と内容物。
GPSの軌跡の中で①~⑦はテン糞の位置である。
テン糞①
この糞は水沢からいよいよ焼山・鳥屋の登山道に向かおうとする時の最後の水沢の沢の中の大きな岩の上にあった。
水洗いすると大半が流れた。全て細かな植物繊維からなる。大きな水鳥の糞だったようだ。
前回も草食生の水鳥の糞とテン糞を間違えた。いずれの場合も持ったとき軽く感じた。
 テン糞②
ササ原が終わって、下草が無くなり始めたところで、コインの左の二つの塊をゲット。
キブシ種子、ヤマネ?下顎切歯毛多数(詳細は分析中)
 テン糞③
登山道の岩の上に
キブシ種子、カマドウマ脚・腹部、小哺乳類毛
 テン糞④
ガレ場を越えてやってきた焼山0.9kmの道標のある、休み台の下に。
キブシ種子、ケンポナシ種子・果柄、小哺乳類骨片・カギ爪・毛(詳細は分析中)
小哺乳類でカギ爪を持つのはリスかモモンガ?かな?

 テン糞⑤
奥野林道の未舗装の沢側路肩の上
キブシ種子果皮果肉、ムカデ外皮2匹、昆虫脚外骨格

 テン糞⑥
キブシ種子果皮果肉
 テン糞⑦
テン糞⑥と10メートルも離れていない沢側路肩
ムカデ外皮、昆虫胸部外骨格脚、両生爬虫類の骨片(詳細は分析中)

前回はネクタイ尾根で見つけたテン糞の中にヤマネの臼歯が入っており、今回もテン糞②はヤマネと思われる歯が混入しており、さらに、テン糞④には小哺乳類の毛と骨片と小さなカギ爪が出てきた。今、手持ちの骨片と対照しているが、非常に小さい爪なのでヤマネかモモンガかもしれない。
いずれにしても、厳冬期のテンは、小動物を食べる時は丸飲みではなくかなり歯で噛み砕いてから呑み込んでいる。まだ、しっかり他の季節に小動物を食べた時と比較していないが、
印象では、厳冬期はしっかり噛み砕くが他の季節はほとんど噛み砕かないで呑みこんでいる。

2015年2月26日木曜日

ササが無かったり有ったり無かったり--これはシカの食害ではない!  It seems that the scarce undergrowth do not base on the sika deer's feeding.

24日に水沢から黍殻避難小屋まで歩いて、気になったことを
ここで、再度取り上げたい。
それは、ササ原があったことである。

10:09、水沢からスギ林の斜面を上がってくる道だ。
スギやヒノキ林には下草が生えないので歩きやすい。下りは特にだ!
スギやヒノキの人工林は地面まで陽の光が通さなくなるために、
他の植物が生育できないのかな?朝日が当たるような人工林の東端では、
エビネやスミレなどの花が咲いているのを見かける。
10:19、上の植林地帯が切れるところ。焼山3.0kmの道標が立っている。
ここは南西に当たるので、陽が当たり、下草としてのササがかぼそく生えている。
 10:22、上の道標から登って尾根に出ると、もうその辺りは自然林帯だ。
昔懐かしいササ原に出たことをお伝えした。下の2枚の写真である。
 
上2枚の写真は10:22に撮ったものである。
が、15分くらい歩いただけで10:39には既にもうササは生えてない。
歩いてきた方を振り返る。
 上と同じ場所で前方を見る。
 これからずーと下草のササが生えていない状態が続く。
11:06、焼山まで2.2kmの道標があるところ。
これ以後はガレ場になる。
12:31、焼山まで0.7kmの道標のところでもササが生えていない。
姫次・焼山の登山道沿いでもササは生えていない。
ただ、平丸分岐のところでは少し背丈の低い笹がちらほらある。
 13:02、平丸分岐の道標ところ、下の写真の右下にササが残っている。
山に下草が生えない。ササが無くなったのは、シカの食害が大きな要因のように解釈されて、
丹沢ではシカの個体数調節のための狩猟が猟期以外にも行われている。
丹沢山塊の禿山化はシカだけの問題なのだろうか?
15年?くらい前に盛ん言われていた大気汚染(酸性雨)に関してよりも
シカの食害によるための植生破壊が大きいな要因なのだろうか?
何も言えない野生動物に責任を転嫁しているだけでないのか?

焼山まで3キロの道標からのササ原はシカたちにとっては食物だらけの天国のような場所だ。
そのササ原がどうして残されているのか?
また、自然林の下草であるササが無い場所と何が違うのか?
ササ原が残っている地点にも大気や雨量の計測器を設置して調べて欲しいものだ。

今日のネズ吉 Today's Nezukichi

ネズ吉が2月22日の夜中に逃げたのが23日の朝気が付いた。
飼育ケースの上蓋を置き忘れたので、飛び出てしまったのだ。
パソコンの上に置いてあったアハゲハが食べられて翅の一部が残っていた。
どこに隠れているか判らないので、また、トラップを掛けることにした。
小さく切った、サツマイモとヒマワリの種子1個を7カ所に置いた。
ぼくの部屋に4ヶ所、隣の居間兼台所に2ヶ所、ぼくの部屋の前の廊下に頭骨棚の横に1ヶ所。
この内、ぼくの部屋の2ヶ所と台所1ヶ所はトラップだ。他の4ヶ所はネズ吉がどこにいるかを調べるものだ。
23日は食事や風呂以外はほとんどぼくは自分の部屋いたためだろう、どの餌も変わらなかった。
24日、丹沢へ行くために5時に起きた。先ず、置いた餌の状態を見た。
ぼくの部屋の1ヶ所と居間の1ヶ所の餌が消えていた。
台所のトラップは入っていない。ぼくの部屋の本棚の下のにも入っていない。
机の足のところに仕掛けたもののフタが閉じている。持ち上げた、重い!
また、同じ場所で捕まった。
飼育ケースに容れた。
起きてきた娘や連れ合いは畑に逃がせと云う。
捕まえて飼育し始めて4ヶ月目に入った。
2月からはハムスターの敷き藁をやめて、普通の土を5センチくらい入れその上に丹沢から拾ってきた枯葉を敷いている。
以来、日中は殆んど地中に潜っているというか下の写真の白い箱に入っている。
これらの写真は捕まえた時、ケースに戻した時のものだ。
動きが早いので30枚くらい撮ったなかでピンが合っているものだ。
 
あー、またここに戻ってきてしまったとでも思っているだろう。
今、箱をそっと持ち上げたら重い。ネズ吉が入っている重さだ。
寝ているようだ。
ぼくが机に向かっている時は上蓋は取り去ったままにしている。
娘の飼育下になったハム丸(ジャンガリアンハムスターの名前)は上蓋などしていない。
が、とび出ることはない。ジャンプ力がアカネズミとハムスターでは格段の差だ。
このハム丸も2012年の1月に専門学校生から譲りうけたものだ。
少なくても3歳以上にはなっている。それだからだろうか?
なんとなく動きが鈍い。
連れ合いと娘は、テレビを観ていても巣箱から出てくると飼育ケースに寄って、
「ハム丸、ハム丸」と呼びかけて背中を撫でている。

ぼくがネズ吉に対する接し方と連れ合いたちのハム丸に対する接し方はまったく異なる。
ぼくは、ネズ吉(アカネズミ)の習性を知りたいために観ているが、
彼女らはまるで自分の子供にでも接するようだ。

2015年2月25日水曜日

懐かしい笹原 The nostalgic Sasa field.

昨日歩いたGPS軌跡。
奥野林道と伊勢沢林道のゲート前に駐車。
既に車が2台とまっていた。女性たちのパーティで賑やか。
どこに行くのか聞かれたので、伊勢沢林道を往き、帰りは奥野林道だと応える。
この時は、伊勢沢林道から伊勢沢へ下りて奥野林道に上がろうと思っていたが、
歩き始めて、すぐ気持ちが変わる。水沢の方で枝打ちのチェーンソーの音が聞こえたので、伊勢沢林道から水沢林道へと方向を変える。
案の定、山に人が入っているため、水沢沿いの山道のコクサギなどが切り払われ歩きやすくなっている。が、鳥屋・焼山の登山道への斜面の登りは以前のままだ。
ZigZagに登って登山道に出る。9時に歩き始めて1時間9分も掛っている。
もっとも、ルートファインディングしなければならなかったし、テン糞を拾ったりしたからだ。
下の写真のところに出てくる予定だったが、20メートルくらい下の登山道に出た。
この白い看板には←水沢へと書かれている。
登山道は以前のように歩き易そうだ。
10:19、焼山3.0km 平戸2.7kmの道標が朽ちかけている。
ここにある休み台の上に倒木だ。
馬ノ背のサルを追い始めた頃、この尾根を下りたこともあった。
間もなく、ササがたくさん繁茂しているところに出た。
40年前の丹沢はこうだった。何となく笹原が懐かしい。
 このように1メートルちょっとの草丈のササが生い茂っているところは、下りは歩けるが登りとなると大変な藪漕ぎだった。しかも、このササの中にサルトリイバラやキイチゴ、サンショウなどのトゲのある木があってナタで切り払っても100メートル進むにに1時間も掛かったものだ。
サルはそんなところでも難なく移動していった。
 今は、このようなササやススキが生い茂っていないので、ぼくらでも平気でと云うよりもナタを持たなくても登山道でないところを歩くことができる。
2,30代の血気盛んな時には、ナタは双眼鏡と共にサル観察・追跡の必需品だった。
だから、下のようなササで覆われた斜面が懐かしい。
しかし、どうしてここのササはシカに食べられずに残っているんだ?
またしても、ぼくの疑問が頭をもたげてきた。
本当に丹沢の山にササが見られなくなったのはシカが食べたためなの?
 この後、登山道に覆いかぶさった倒木を巻いたり、乗り越えたり、潜ったりが続いた。
 
 
 
 
11:06、焼山2.3km 平戸4.5kmの道標と休み台
11:53、子供の水筒が置かれている。子供を連れて焼山の登った人がいるんだ。
この水筒があったところから間もなく、ガレ場の連続だった。
この雪が残っているところが道である。
表面の雪は柔らかいが下は凍っている。渡って振り返る。アイゼンが欲しかった。
12:05、以前はここは上を巻いた。
12:12、再びガレ場をトラバースする。
12:13、ここは5メートルくらい上部を巻いて、対岸の雪原に出た。
もう、この時はこの道はアイゼンがないので、引き返せない。
兎も角、登って姫次・焼山の登山道に出るしかないと思う。
上の写真の雪面の斜面に出て、登山靴の先で雪を蹴って、足を乗せるステップを作りながら一歩一歩歩く。ようやく、階段が出てくるが、そこも同じように歩く。
12:16、焼山0.9kmの道標のところだ。
ここにも休み台があり、この下にテン糞を見つけた。
ここを登山道を行かないで休み台のある尾根を下っていくと、伊勢沢林道に出ることができる。
12:36、上の休み台のところから焼山0.7kmの道標を過ぎて雪原を歩くことになる。
表面3、4センチは柔らかく下は凍った腐れ雪だ。
 登山者の靴跡が残っていたり、無くなったりするが、ぼくはぼくの記憶通りに歩く。
12:39、登山道の道標が見えた。着いた。
 登山道から登ってきた方を振り返る。
この登山道、日影は腐れ雪で、日向は表面5センチくらいの泥んこ道だ。
5センチ以下は霜柱が10センチくらいにもなって、陥没し、歩き辛い。
 黍殻山にも登らず、ただひたすら黍殻避難小屋を目差す。
ぼくと同年齢くらいのマタギのように木の棍棒を杖がわりについてやってくる単独行者と挨拶を交わす。今回歩き始めて会った唯一の登山者だ。
避難小屋では13:36~14:10分までの約30分間、休憩をする。
帰路奥野林道でテン糞を3ヵ所で拾い。車に着いたは16:55にもなっていた。
もっとも、日が長くなっていたから、焼山・姫次の大平分岐からはほぼ1時間かけてゆっくり下った。
歩いた距離はGPSでは18.7キロだった。