2013年1月26日土曜日

タンザニアでの危機管理 Crisis Management for me in Tanzania

アルジェリアの人質事件で思い出した。
1994年から1997年の3年間、ぼくはタンザニアのマハレ山塊国立公園にJICAの専門家として滞在していた。
ここマハレは、タンガニーカ湖の中央に東岸からデベソのように突き出たところである。
ぼくの家はタンガニーカ湖畔にあり、そこは、国立公園基地のビレンゲ(写真右の↓)の外れにあり、公園外カリラーニの村(写真左の↓)との間くらいにあった。
夕日が沈んで行くときには、対岸のザイールの山並みが湖面に浮かんで見えた。
当時、ルワンダの内乱で難民となったくさんのフツ系の人々がザイール側に流れ込んでいた。そ
のことによって、さらにザイールも内乱が勃発していた。
ぼくは、火曜から土曜までの4泊5日を山で過ごし、土曜から火曜の朝までを湖畔の家(真ん中の↓)で過ごしていた。
ぼくと一緒に山で過ごしていた人たちはトングエ族であった。
彼らはマハレが国立公園になる前はここに住んでいた人たちである。
ザイールの内乱の様子は対岸にいても判るようになった。
国立公園のボートには、海賊(湖族)に襲われたら反撃できるようにライフル銃をもつレインジヤーが乗るようになった。
ぼくと一緒に山で過ごしている、カティンキラ(写真右)やシャバニ(写真右から二人目)たちからは、ぼくが湖畔の家に居る時に、彼らや他の者が夜にやってきて、ドアを叩いて呼びかけても決してドアを開けてはいけないと言われていた。
当時は、大使館からも危険だからダルエスサラームに戻ってくるように無線が入っていた。
ぼくは、万一の時に備えて、夜、裏口から逃げる時の装備を整えたザックを用意していた。
裏口からはすぐ山になっていた。
山の中ならぼくが知っている。
 
1995年のクリスマスの夜であった。
ぼくは公園管理官のワキバラやウィリアムとマリサに招かれて彼らとイブの夜を過ごし、湖畔の家に戻ってベッドに入って寝ていた。
しばらくうとうと寝ていたら、ボートのエンジン音が近づいてきた。
ぼくの家の前の湖岸で停まったことが判った。
男たちの声が聞こえる。
懐中電灯の明かりが寝ている部屋の窓の板戸の間や、壁と天井の隙間から入り込んできた。
 
ぼくは、急いで着替えて登山靴を履き、ザックを担ぎ、裏口のドアの鍵穴に鍵を差し込みすぐ開けられるようにした。
 
2、3人の男がぼくの家のベランダに上がり、何か話しをしている。
突然、「フクダー!フクダー!」「ミミ、トム! ミミ、ファーク」とこちらに向かって呼びかけている声。え?ファーク? ファークはロンドン大学の学生で、入学前にぼくの仕事を手伝ってくれたドイツ人だ。赤ん坊の時からタンザニアに住んでいるので、スワヒリ語はペラペラだ。
 
ぼくは音を潜めていると、何人かの男たちは、湖岸に戻っていった。
一人がべランダに残ったようだ。
エンジンを始動させる音がして、エンジンがかかりボートが遠ざかっていったのがわかった。
ベランダを歩く音やガサゴソと音がしていたのが止んだ。
どうも、寝袋に潜り込んで寝たようだ。
静かにドアを開け、様子を伺った。
月明かりがベランダの奥までは届かないが、大きなザックの陰に一人が寝袋に入っているの分かった。
ファークのザックだ!

その夜は、二人で、ぼくにとっては2度目のクリスマスイブのお酒を楽しんだ。
彼は、今、アメリカのWildlife Conservation Societyのエコロジストしてスーダンで活動している。
つい10日前に何年か振りにメールをもらった。3月には女の子が産まれるようだ。今年1年はPh Dを取るためにフィールドには出られないようだ。

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